乱読一風

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宇佐見 りん 「推し、燃ゆ」 ~推しとリアルのあいだで~

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寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる

 早速いろいろな方が感想を書いている話題作、やっと読んでみました。

もう、文章がキラキラしているのですね。理屈ではない感性が跳ねている感じ。それを追うだけでも十分楽しく読める作品でした。

引用したい文章がたくさんあるが、最初の方の学校のプールの場面から主人公の生きにくさが肉体の重さとして語られている。これがなんとも鮮やかに主人公の高校生活の状況をあぶりだしている。

なぜこんなにも生きにくいのか、すべてが重く滑るようにまとわりつく彼女の生活に鮮明な息吹をもたらしたのが、推しだった。

今の時代、<推し>がいる人はたくさんいるだろう。昔のファンとも違う、より一層共に生きようとする。限られた情報で思いつく限りの想像を働かせ自分の人生に取り込んでいく。少しでもリアルに近づくために、集めた情報で自分の中の<推し>に息を吹き込み、そしてその虚像と生きていくことを生活の支えとしていく。

推しを押すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

主人公は現実の高校生活ではいたってできが悪い。バイト先でも怒られてばかりだ。<推し>はそんな彼女が現実社会でちゃんと立つための背骨のようなものなのだ。

話は変わるけど、東日本大震災の時、TVのコメンテーターが「今回の地震でたくさんのものをなくしたが、仕事がなくなったことも大きな問題で、仕事というのは人の体で言えば、背骨のようなものですからね」と語っていたのを思い出した。背骨がなければちゃんと立つことはできない。生きていても、寝たきり状態と同じなのだ。「背骨」とは主人公にとって推しの存在がどのようなものかを納得させる表現で、推しが不祥事を起こし彼女の生活が崩れていくことになるのは容易に納得できるのである。そして、彼女の人生はより一層背骨に集中していく。重くうっとおしい肉体をストイックにそぎ落としていく。

現実の社会で彼女はちゃんと生活していくこと、学生として生きていく事ができなくなる。<推し>が芸能界を引退し、いなくなったことで現実の生活も崩れていってしまうのだ。<推し>によってなんとかバランスをとっていた彼女の生活は一気に傾いてしまう。なぜなのかどうすればいいのか、回りの大人たちは誰も答えず、自分でなんとかしろ、と目をそむけていく。家族(父と母)は学生を辞めるなら、社会人として経済的に自立して自分で生きていくべきである、と主人公に突きつける。ちゃんと勉強をして、頑張っている姉(当然経済的には自立していない学生のまま)のことは受け入れてなじんでいるのに、学生でいることすらできない主人公は突き放すのである。主人公は父母からのわずかな仕送りで一人で暮らし始める。バイトも仕事もせずに。

若者のニートや引きこもりについて、いろいろな論評があるが、あくまでも大人目線、社会に役に立つ人間になるよう本人ができるところからやらせてみるべき、ニートや引きこもりは、甘え又は病気、という目線が多いような気がする。この小説はそれを否定とも違う、無意味にしていく。

かつては学生が学生でいること、小学生は小学生でいること、中高生は中高生でいること、社会人は仕事をして家庭を作る一市民でいること、が人を形づくり骨格となって人生を作っていた。今その骨格が危うくなっている。不登校は珍しいことではなくなり、ブラック企業がそこかしこにあり、鬱になり休職することも珍しくなくなった。骨格は蝕まれ、隙間に入り込んできたのが<推し>という仮想現実なのだ。この仮想現実の支えがなくては実際の現実は成り立たなくなるほど、現実の生活の骨格の部分はもろくなっている。そんなもろいものが魅力的であるはずはなく、どうしてそこに身を投じなくてはならないのか?基本の大前提がボロボロになりつつある、それについて誰も何も教えてはくれないのだ。仮想現実だろうが虚像だろうが、<推し>で補うのはむしろ<あり>なのだ。

<推し>が消えた世界で、主人公は這いつくばりながら生きていくことを受け入れていく。今の自分にはそれしかできない、と。

と書いていくとなんかとてつもなく暗い感じになるが合間に挟まれる<推し>に関する記述では主人公はイキイキとしている。そこはかとない明るさがあるんですね。それが<推し>の不思議なところで、なんか明るくなっちゃうのである。

実際にですね、私にもいい年をして<推し>がおりますが、<推し>がいる生活は楽しい。生活にメリハリをつけ、同じように<推し>を応援している人たち(基本誰だかわからない他人)と交流すれば、なんだか無二の親友のように<推し>について語り合い、何とも言えない満足感を味わったりする。<推し>についてのSNSの感想に思わず吹き出したりしてしまう。

この感覚は一体なんだろう?時に現実より明らかに楽しいのだ。以前アーノルドシュワルツネッガーのトータル・リコールという現実とバーチャルとが入り乱れる映画があった。それには現実はこれ!という答えがあったのだが、<推し>の作り出す世界はその境界線上にあるようで、今の私たちは危ういバランスを取りながらどちらの世界も行き来している。バランスは崩れる時もあり、それは誰にでも起こることでもあり、<推し>を手放せという単純な話ではなくなってしまっている状況では、どうすればいいのか正解はあるようでないのだ。

<推し>のいる人は大いに共感できる行動が随所にあり、また、いない人も現実の重さを認識できる、久しぶりにおもしろかった芥川賞受賞作だった。それにしても、若いっていいな~。