乱読一風

読んだり観たり思ったり

還暦からの底力 出口治明  人・本・旅のすすめ

久しぶりの投稿である。

なんか忙しかったのですよ。私も実は還暦を過ぎ、仕事を辞め好きな読書三昧と思っていたら、なんと娘に子供が産れ、つまり、孫が誕生しました。パチパチパチ。が、これがとにかく久しぶりに忙しい日々に襲われ、 いやー、大変だったわ。

そんな中、出口治明氏の<還暦からの底力>をよんでみた。ハウツー本はあまり好きではないのに、なぜ?というとこの人の経歴にひかれたのである。

還暦でライフネット生命を立ち上げ、古希で立命館アジア太平洋大学の学長をやっている。2020年5月に発行された本なのでコロナの影響がどうなったのかは書かれていないが、それ以前の大学での様子などは書かれている。

とにかくなんだかアナーキーっぽいな、と私は思った。もしかするとグローバリズムアナーキーはどこかで繋がっているのだろうか?

みんなが年を重ねても生き生きと暮らすには個人の生活や考え方はもちろん、社会的な制度や慣習のどこに問題がありどこを変えていけばいいのか

 

を考えていく、というか提言を次から次へと繰り出している。

目次を見ればそれだけで面白い。いくつか拾ってみる。

自分の頭で考えてこなかった日本の大人たち

「仕事が生きがい」という考え方が自分をなくす

人生は愛情や友情の獲得競争

性別フリーで女性の地位を引き上げよ

男性が子育てすると家族愛が高まる科学的理由

「迷ったらやる。迷ったら買う。迷ったら行く」

年齢の縛りから自由になる

 

私より10以上年上の方だが、定年間近のおじさんたちの尻を叩き、もっと学べと言い、とにかく攻めの姿勢が素晴らしいのだ。特に日本の教育制度や男女平等政策への提言などは還暦以上のおじさんたちにぜひ読んで欲しい。息子が抱っこひもで赤ちゃんを抱っこして保育園へ送っていく姿を見て仰天しているおじさん、まだまだ日本にはたくさんいますよね。老害以外の何物でもない。

高齢者は「次世代のために働くこと」に意味があり、次世代を健全に育成するために生かされていると考えるべきなのです

だから、今どきの若い人たちはとか言ってはいけないのだ。全部自分に返ってくる。

大きく言えば、若い人たちが少しでも暮らしやすく、活躍できる社会を作っていけるようバックアップしていく、それが役目なのだ。

あまり細かい内容を書いていくときりがないのだが、若い人たちも読めば勇気が湧いてくるのではないかと思う。こんな老人なら、歓迎されるのではないかな。

今後60歳以上の人口割合はどんどん増えていき、それは支えてもらいたい人たちが増えるということだ。支えられなくても生きていける年寄りを増やし、支える側に回ってもらう、そしてそれを楽しみとできる人が年をとっても人生を楽しめるのかもしれない。

まあとにかく、読んだからには実践!小さなことでもいいのだ。迷ったら、やるですね。

RANGE レンジ 知識の「幅」が最強の武器になる

早期教育から高度な専門性まで今の常識を疑ってみる

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さて、今回は実務書的な心理学的な研究ノートである。

といっても結構なボリュームがあり、心理学的観点からの話もてんこ盛りなので、読むのは少し時間がかかった。が、内容は素人にもわかりやすく時間はかかってもよみやすかった。

私は、基本あんまりハウツー的な実務本はあまり読まない。途中で飽きちゃうのである。筆者が手を変え品を変えこれでもかと持論を展開するのに飽きてしまって、「はいはい……わかった、わかった、わかりました」といった気持になり、最後まで読み切れない。この本は、豊富な事例と心理学的な調査をもとに早期教育や高度な専門教育が陥りやすい間違えや限界を指摘している。ぜひぜひこれから子育てをする方、今現在子育て中の方、将来に迷っている若者に、読んで欲しいなあ。

目次を拾ってみよう。

第一章 早期教育に意味はあるか

第二章「意地悪な世界」で不足する思考力

第三章 少なく、幅広く練習する効果

第四章 早く学ぶか、ゆっくり学ぶか

第五章 未経験のことについて考える方法

 

このような感じで第十二章まである。早期教育やアーリースタートの弊害、高い専門性のある職業や研究の限界を突破したのは、様々な経験をして専門分野をいくつも渡り歩いた人々であり、門外漢の発想とアイディアであったことが豊富な事例とともに語られている。タイガーウッズや日本でいえば藤井聡太さんあたりか、早期からの英才教育はごくごく限られた分野でごく限られた人に対しては有効であるが、おおよその場合、様々な経験をして本人自らが選び取った職業が成功への可能性を広げると筆者は力説している。大切なのは真剣にチャレンジをすること、向いていない、違ったと思ったら、やめて次のチャレンジをすること、アマチュアである、つまり狭く高い専門性を持たないことである。もちろん、狭く高い専門性を持つ人間は必要であり、新しい技術や発見には欠かせないが、それと同じくらい、多様性も必要だという事なのだ。

今の日本の社会制度では(以前よりだいぶ緩和されてはきたが)まだまだ転職は、マイナスのイメージとなるし、30歳間際まで定職についてないとあやしい人に認定されてしまうような風潮がある。この本に登場する人々は(有名、無名問わず)全く違う世界へ次から次へと飛び込んでいっている。そして本人も思いもしなかった分野で成功し、それまでの経験はすべて無駄ではなかったと証言している。遅いスタートは問題ではなく、知識の不足や不十分な技能は補えるものだったのだ。

個人的に面白かったのはスペースシャトルチャレンジャー号の炎上事故の検証である。硬直した組織は門外漢を受け付けず、データに載らない違和感を追求せず、狭く高い専門的な見方のみで判断を誤ってしまう。

これを今のコロナの日本の状況と置き換えてみる。感染症の専門家にしてみれば、飛沫感染であるなら人と人との接触を辞めれば、感染は収まる。ゼロになるまでロックダウンをすればいいという結論になるのかもしれない。しかし、経済的な問題、国民生活の維持の問題、心の持ち方の問題、子供の成長への影響など、多様な観点から見なくてはならないが、感染症の専門家にはそんなことはわからないだろう。感染症ではないが厳しい状況を知っているほかの誰か、が必要になる。

アナロジーは近年心理学の分野で検証されているようだが、ほかのことに置き換えて考えてみる、まったく違った事象でも似たケースはなかったか考えてみる、そこから思いかけないアイディアが生まれてくるのである。

この作者はデイビット・エブスタインさん、アメリカの方である。彼自身も様々職業を経験しており、とにかく深く又は高くなくても幅広い知識と経験が大いに役に立つと情熱的に語っている。その熱量になんか感動しちゃうのですよ。ホント、いろいろ面白かった。

伊集院静、ひろゆき、百田尚樹 

 ここ最近は、何となくぼやぼやと雑用に時間をとられて、あまり本は読めていない。

季節の変わり目である。新学期が始まるような学生や期末だから税金がとかいう大人も家族にはいないので、特に何もないといえば何もないのだが、何となく暖かくなったのでカーテンを洗ったり、庭の草刈りや木の手入れ、害虫除けの薬をまいたり、お花見にぶらぶらと出かけたり、なんとなく忙しない。

そんなこんなで読みやすい文章をすらすらと特に考えることなく読んでいく感じの、軽めに読める本ばかり読んでいた。

 

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伊集院静 大人の流儀10 ひとりをたのしむ

 ずっと読んでいるエッセイである。

大好きなのか?と聞かれるとそうでもないし、小説は読んだことがないし、ただただこのシリーズのみずっと読んでいる。なんだろう、ちょっと違和感がある考え方なのだが、私のそばにもこういう人いるのかもと思わせる人なのだ。男っぽいというべきなのか、クリエイターっぽいというべきなのか何冊読んでもわからないのだけれど、毎回ほう、と思うことがある。

しあわせはどれも似ているところがありますが、悲しみは、その大小にかかわらず、同じ表情をしたものはひとつもありません。 

 日々の出来事と雑感が語られている。そうそう、と思うこともあり、へえと思うこともあり。底辺にある独りであることを受け入れて生きるという感覚はこの人ならではのものなのだろう。キザなのだ。いい意味で。

 

ひろゆき 叩かれるから今まで黙っておいた世の中の真実

という題名だが、そんなに新しい真実が書かれてはいない。ただ、本人も言っているが、説明が上手。確かにいろいろなことがわかりやすく書かれている。世界はもちろん日本も2極化が進んでいる。格差社会である。そんなはずない、と思う方は一度読んでみればいいかもしれない。身も蓋もないことが書かれている。でも本当に必要なのはこの身も蓋もない話を起点に考えることだろう、と思った。

 

百田尚樹 野良犬の値段

初めての百田尚樹、これは面白かった。前半ちょっとだれてきたなというところで犯人側に視点が変わり、そこからは怒涛の展開となる。ちょっと設定が都合いいかなとは思うが、現代にぴったりのSNSや映像配信を駆使したストーリーとなっている。

SNSミャンマーでも香港でも独裁に対抗する市民の重要なツールとなっているようだ。そして、コロナ禍の中、分断された人々を慰める道具でもあるかもしれない。誰に言うでもなく思ったことをつぶやいたり、投稿したりしていた吐き出しのツールでもある。知らない誰かと淡いながらもつながったりする。

しかしながら、SNSは違う顔も持つ。全然関係ないが、トランプ大統領SNS使いは、群衆を操り、支配するツールとなることをまざまざと見せつけたし、今や世論はSNSに左右されているようにさえ見える。つぶやかない、コメントを書き込まない人達も巻き込んで世の中の空気を作り出す。これって怖いことだな、と思う。群衆は衆愚になる。SNSはその傾向が強いように思う。

又、トランプ元大統領のように意図的に群衆を操る道具とされた場合は、運営会社はアカウントの停止によって、口を封じ、ある意味警察より政府より強い権力を持つことを示した。人の命にかかわることすら起きてしまう。

そんなことをつらつらと考えさせるストーリーだった。最後が何ともよい終わり方をしているので、小説は嫌な思いをすることなく、ストレスなく読み切れた。

 

TV視聴 ETV特集原発事故”最悪のシナリオ”~そのとき誰が命を懸けるのか~

最悪のシナリオ 誰が命をかけるのか (3/10 0時再放送)

10年前のあの大震災について、今日はTVでも様々な特集が組まれている。

東日本に住んでいる人々にとって誰もがあの日、自分がどうだったか、どんな状況だったか、それぞれに思いがあり、忘れられない1日であったことは間違えないだろう。

それにしてもこの検証のドキュメンタリーがなぜ深夜のEテレなのか、ゴールデンタイムのNHKではないのが不思議なくらいその当時のリアルなやり取り状況をうつしだしている。見ていて、怖いくらい日本は危機的な状況だったのだ。首都圏を含む東日本壊滅の危機、当時そんなことは全く知らなかった一市民としては驚きの連続である。

当時も米軍や在日外国人が次々と自国に退避していることは話題になったが、地震慣れしていない海外の人たちだから、と私は思ったりしていた。

又、訳も分からず(と見えた)避難所から避難所へと退避していく原発20キロ圏内の住民を他人事としてTVで見て、これは結構まずい状況なのかな?とのんきに思っていた。

日本は原発が多数あるにもかかわらず、政府も自衛隊もそして国民も原発のことを知らな過ぎる。必要な情報も判断できるだけの知識も無さすぎたのだ。私たちはもろ刃の剣となる原子力を使用していく以上、また災害の多い国土を思えば、どれだけ備えても足りないくらいなのだろう。安全神話にあぐらをかき、事故が起こって初めて危機管理不足に思い至るとは遅いにもほどがある。

事故が起きた時、終息への努力は必要である。それは一企業である東電の社員がやるのか、知識のないまま自衛隊がやるのか、もうぐたぐたの状況の中事態は悪化していくばかり。奇跡的に最悪のシナリオにはならなかったが、それは本当に運がよかっただけなのかもしれない。

今の福島第一原発の状況は、後処理に何十年かかろうとも、最良ではなくとも、最悪ではなく、むしろここまで回復したのは奇跡的に思える。いまだ帰れない方々がいらっしゃるにしても、である。

当時の関係者がいろいろと証言しているが、東電の当時の社長は一切の発言をしていない。そういえば、当時も東電の社長は記者会見をしなかった。副社長か技術系?広報?の社員だったと記憶している。当時もなぜ社長はでてこないのか不思議に思ったがこの番組にも一切のコメントを拒否しているようだ。マスコミ不信なのかもしれないが、どうとらえられようとも説明し、自らの思いを発信するべきではなかったのか?

菅総理は比較的正直に状況をさらしている。批判も覚悟で国民にゆだねる、それが今後に生かされていくというのを理解しての証言であろう。自己防衛的な発言もあるが、それをさらせるのはいいのではないかと思う。当時誰もが必死だっただろう。それでもうまくゆかなかった点は、今後に生かされてしかるべきものだが、最後に自衛隊の元幕僚長が言っていた、何も変わっていない、という言葉は現政権のコロナ対策を思い起こさせる。危機に対して鈍感なマインド、それは日本の特徴かもしれないと。

現場の力

日本は危機的状況になるといつだってまず、現場が頑張るのだ。福島第一原発でも残った社員が何とか2週間持ちこたえた。今現在起きているコロナも医療従事者の皆さんが奮闘されている。この現場力こそ日本の実力である。この現場力を殺してしまわないためにも政治家はもっとシャドーワークをいとわずに(派手なパフォーマンスやもっともらしいカタカナ語で気を引くのはやめにして)コツコツと積み上げる仕事、何かあったときにこれがあったからよかったんだと思える仕事をしていってもらいたい。災害の前ではすべての人間は命がけになる。その時、あってよかったと思える政治は一朝一夕にはできないのだから。

 

 

宇佐見 りん 「推し、燃ゆ」 ~推しとリアルのあいだで~

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寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる

 早速いろいろな方が感想を書いている話題作、やっと読んでみました。

もう、文章がキラキラしているのですね。理屈ではない感性が跳ねている感じ。それを追うだけでも十分楽しく読める作品でした。

引用したい文章がたくさんあるが、最初の方の学校のプールの場面から主人公の生きにくさが肉体の重さとして語られている。これがなんとも鮮やかに主人公の高校生活の状況をあぶりだしている。

なぜこんなにも生きにくいのか、すべてが重く滑るようにまとわりつく彼女の生活に鮮明な息吹をもたらしたのが、推しだった。

今の時代、<推し>がいる人はたくさんいるだろう。昔のファンとも違う、より一層共に生きようとする。限られた情報で思いつく限りの想像を働かせ自分の人生に取り込んでいく。少しでもリアルに近づくために、集めた情報で自分の中の<推し>に息を吹き込み、そしてその虚像と生きていくことを生活の支えとしていく。

推しを押すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

主人公は現実の高校生活ではいたってできが悪い。バイト先でも怒られてばかりだ。<推し>はそんな彼女が現実社会でちゃんと立つための背骨のようなものなのだ。

話は変わるけど、東日本大震災の時、TVのコメンテーターが「今回の地震でたくさんのものをなくしたが、仕事がなくなったことも大きな問題で、仕事というのは人の体で言えば、背骨のようなものですからね」と語っていたのを思い出した。背骨がなければちゃんと立つことはできない。生きていても、寝たきり状態と同じなのだ。「背骨」とは主人公にとって推しの存在がどのようなものかを納得させる表現で、推しが不祥事を起こし彼女の生活が崩れていくことになるのは容易に納得できるのである。そして、彼女の人生はより一層背骨に集中していく。重くうっとおしい肉体をストイックにそぎ落としていく。

現実の社会で彼女はちゃんと生活していくこと、学生として生きていく事ができなくなる。<推し>が芸能界を引退し、いなくなったことで現実の生活も崩れていってしまうのだ。<推し>によってなんとかバランスをとっていた彼女の生活は一気に傾いてしまう。なぜなのかどうすればいいのか、回りの大人たちは誰も答えず、自分でなんとかしろ、と目をそむけていく。家族(父と母)は学生を辞めるなら、社会人として経済的に自立して自分で生きていくべきである、と主人公に突きつける。ちゃんと勉強をして、頑張っている姉(当然経済的には自立していない学生のまま)のことは受け入れてなじんでいるのに、学生でいることすらできない主人公は突き放すのである。主人公は父母からのわずかな仕送りで一人で暮らし始める。バイトも仕事もせずに。

若者のニートや引きこもりについて、いろいろな論評があるが、あくまでも大人目線、社会に役に立つ人間になるよう本人ができるところからやらせてみるべき、ニートや引きこもりは、甘え又は病気、という目線が多いような気がする。この小説はそれを否定とも違う、無意味にしていく。

かつては学生が学生でいること、小学生は小学生でいること、中高生は中高生でいること、社会人は仕事をして家庭を作る一市民でいること、が人を形づくり骨格となって人生を作っていた。今その骨格が危うくなっている。不登校は珍しいことではなくなり、ブラック企業がそこかしこにあり、鬱になり休職することも珍しくなくなった。骨格は蝕まれ、隙間に入り込んできたのが<推し>という仮想現実なのだ。この仮想現実の支えがなくては実際の現実は成り立たなくなるほど、現実の生活の骨格の部分はもろくなっている。そんなもろいものが魅力的であるはずはなく、どうしてそこに身を投じなくてはならないのか?基本の大前提がボロボロになりつつある、それについて誰も何も教えてはくれないのだ。仮想現実だろうが虚像だろうが、<推し>で補うのはむしろ<あり>なのだ。

<推し>が消えた世界で、主人公は這いつくばりながら生きていくことを受け入れていく。今の自分にはそれしかできない、と。

と書いていくとなんかとてつもなく暗い感じになるが合間に挟まれる<推し>に関する記述では主人公はイキイキとしている。そこはかとない明るさがあるんですね。それが<推し>の不思議なところで、なんか明るくなっちゃうのである。

実際にですね、私にもいい年をして<推し>がおりますが、<推し>がいる生活は楽しい。生活にメリハリをつけ、同じように<推し>を応援している人たち(基本誰だかわからない他人)と交流すれば、なんだか無二の親友のように<推し>について語り合い、何とも言えない満足感を味わったりする。<推し>についてのSNSの感想に思わず吹き出したりしてしまう。

この感覚は一体なんだろう?時に現実より明らかに楽しいのだ。以前アーノルドシュワルツネッガーのトータル・リコールという現実とバーチャルとが入り乱れる映画があった。それには現実はこれ!という答えがあったのだが、<推し>の作り出す世界はその境界線上にあるようで、今の私たちは危ういバランスを取りながらどちらの世界も行き来している。バランスは崩れる時もあり、それは誰にでも起こることでもあり、<推し>を手放せという単純な話ではなくなってしまっている状況では、どうすればいいのか正解はあるようでないのだ。

<推し>のいる人は大いに共感できる行動が随所にあり、また、いない人も現実の重さを認識できる、久しぶりにおもしろかった芥川賞受賞作だった。それにしても、若いっていいな~。

 

伊坂幸太郎  AXアックス ~孤独について~

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2017年7月 角川より単行本発行

2020年2月 角川より文庫として初版 連作短編集

最初のAXは2012年野生時代初出掲載されている

いつだって暗いぬかるみの中をあるいてきた。

 

私にとって「初」伊坂幸太郎氏である。なかなか熱狂的なファンがいる、と何かで聞いた覚えがあるが、殺し屋の話があまり得意ではなく、今までスルーでしたね。

アックスとは斧のこと、この話の主人公である最強の殺し屋のハンドルネーム?である。主人公がちょっとほかと違うのが、最強の殺し屋にして、恐妻家というところで、これはコミカル路線なのか?楽しくしちゃうのか?殺し屋の話だけど?とはてなマークのままとりあえず、読んでみた。

2018年本屋大賞ノミネート作品なので、ストーリーはさすが安定のおもしろさ、なんで今まで読まなかったのかな、伊坂幸太郎氏を、私は!

コミカルな色合いはあまりなく、主人公には普通の家庭があり、そろそろ進路を決めようか、という思春期の息子がいて、その一般市民としての家庭生活と殺し屋のお仕事が同じ地平線上に続いている。当然、彼は殺し屋の仕事はやめたいと思っているのだが、裏の世界からの脱出はなかなかできずにいる。

ところどころにある伏線は場面場面できちんと回収され、あ、これはここで回収なんだ、とストレスフリーな展開、そして、ああそうか、と思わせる文章もちゃんとありました。

なぜ彼は、殺し屋になったのか、最終章でさりげなく示唆している文章がある。

いつだって暗いぬかるみの中を歩いてきた。子供のころから親しい者もおらず、俯きながら裏道を歩く日々を過ごしてきた。

一言で言えば不幸な生い立ちという事だろう。不幸な生い立ちがどんなものだったかは記載がないが、暗いぬかるみの中を歩くという一文で想像できることはいくらでもある。不幸とか不運とかではなく、宿命だったのかもしれない。逃れることができない日々を過ごしてきたことがこの文章に凝縮されている。殺し屋を辞めたくてもなかなか辞められないのは今に始まったことではないのだ。

そして続きはこうなる。

 

ほかの人たちはみな、舗装された道を歩いている

 

ぬかるんで歩きにくい道ばかりだ、と思っていたが、横を見やればほかの人たちはみな、舗装された道を歩いている。

ずっとこのままなのだろうか、と浮かんだ疑問を自身ですぐに消す。ずっとこのままに決まっていた。

孤独な独り歩きが綴られている。まさに、孤独ってこれだな、と思った。まわりには自分とは違う「やすさ」を身につけた人たちでいっぱいなのだ。生きやすさ、生活しやすさ、愛しやすさ、皆軽々とこなしている、なぜ自分は、、、と他者との比較の中に孤独は忍び込んでくる。人と比べるな、なんて人間である以上できないわけで、ジャングルでライオンにでも育てられればまた話は別だろうが、舗装道路と思っていた他人の道が同じようなぬかるみであったとしても、ぬかるみ具合を比べるのが人間なのだ。自分は自分でいいのだ、という力強い自己肯定は、何かしら少しでも、ひとかけらでも、幸せな子供時代の思い出が必要ではないか、と思う。そして孤独は病のように心を蝕み、判断を狂わせ、行ってはいけない方向を指さすのだ。

だが、やがてアックスは暖かいものが胸に広がっていく家庭を持つ。彼がいかにして家族を持つようになったのかは語られていない。高校生の息子と妻との日常がつづられていく。彼は、暖かい家庭というものがわからない。そこで妻の言動一つ一つにどのように応対するのが正しいのか、トライアンドエラーで学んでいくのだ。学習は、教える側に学習していることがばれてはいけない。なぜそんなことがわからないのか説明しなくてはならないような事態を招いてはならない。そうして暖かい家庭を維持し、家族がバラバラになったりしないよう細心の注意を払うのだ。初めて感じた胸の中に湧き上がる暖かい気持ちを離すまいと必死なのである。

これではまず間違えなく、亭主関白にはならないですよねえ。世間で定義されている恐妻家とは少し違う。妻が怖くてしょうがないのだが本当に怖いのは妻ではないのだ。最初はややコミカルに恐妻家ぶりがつづられているが、やがてアックスの学習の成果が普通の夫、父親としての自然な振る舞いに集約されていく。

ところで、「孤独」の対義語ってなんだろう、とググってみた。あえていうならば、「連帯」らしい。なるほどね。アックスも物語の中で連帯を思わせる言動が増えていくのだが、それがまた彼のアンビバレントな在り方を加速していく。

戦いや殺人の打ち合わせなどの場面はいまいちピンとこない私だが、ストーリーの中の主人公の変容と、息子による謎解きの後半とで一気に読み切ってしまった。

私のように殺し屋の小説は読まないよ、という女性にもおすすめです。

 

 

 

初めまして

さて

初めまして、ですね。

仕事を辞めて暇になり、とにかくやりたかった、本を読んだり、ゆっくりとエンタメを鑑賞したり、という時間がやっととれるようになった。

本棚を整理していると、あ~これも読みたかったんだよねえ、と思い、TVがつまらんなと思えば、YouTubeってものが面白いらしいと、のぞきに行き、という生活を送っている。まぁ、そればっかりではないですけど、一般市民として普通に生活もあります。

インプットばかりの生活はなんだか体が重いので、(重いのはそのせいばかりではない、もちろん)私的感想をつらつらと書きつらねていこうか、と思いたち、今ここ、という訳ですね。

普段読んでいるものは、というとですね、重いテーマの本はつらくなるのであまり読まないし、だからと言ってライトノベスが好きかというと全然そんなこともなく、はやりのものは周回遅れでやっと追いつくかなといった感じだし、じゃあお前は何を読んで何を言うつもりなのだ、と言われても、ねえ。

 

言葉が好きなのである。小説もストーリーが面白いのはもちろん大切だが、はっとするような表現や言葉があると、うーん、まいりました、と言いたくなる。

あれ、こうきたかと思ってしまう文章にであうと、これを書いた人の頭の中はどうなっているのだろう、どんなふうに育ったのだろう、とひたすら不思議になる。

そんなことを書いていこうかな、と思っている。

 

芥川賞

しばらくご無沙汰していたエンタメのあれこれを楽しく見ていたら、(基本ミーハーなのです)とても好きな俳優さんができてしまった。私の普段のミーハー視聴態度は、お笑いにしてもドラマにしても歌にしても、あー面白かった、素晴らしかった、でおしまい。後に残ることはない。

しかし、彼に関しては、なんと繊細な芝居をするのだろう、と感心しているうちに、ふと、彼はほかにはどんな仕事をしているのかな?そこでも変わらず細やかな表現をしているのだろうか?と思っていろいろ調べだし、(ほら、なんせ暇だから)なんてことはなくあっさり、沼に落ちたのである。3か月前まで、沼にはまるって何?どういうこと?と思っていたのに!雑誌もたっぷり買い込み、舞台も行ってしまったわい。

で、もっとこの良さをほかの人にもわかってもらいたい、彼にもっと思う存分仕事をしてもらいたい、そしてその輝くさまをみていたい!・・・・・推しの誕生である。

実はこれ、私的にはかなりびっくりな出来事だった。今まで我が家でミーハーの王様と女王様は夫(←かなりいい歳のおじさん)と娘(←まあまあいい歳)であり、二人がいかにこのアイドルが素晴らしくて、だから自分は応援しなくてはならなくて、もっとみんなにこの素晴らしさを分かってもらいたいんだ!と力説するのを「ほ~ぅ、へ~ぇ」と冷ややかに、そうとは悟られない程度の相槌を打っていたのである。

 

つい先日、芥川賞直木賞の発表があった。

今回芥川賞に選ばれたのは、なんと21歳の大学生、宇佐見りんさんの 「推し、燃ゆ」だった。旬に疎い私だが、これはちょっと読んでみたいなあ、と思っている。

まあ、いつになるかはわからないが、近い将来に、である。

若い才能が時代をつかんだというか、タイミングがあった、というか、きっとそれも才能の一つなのだろう。ベテランでうまい人はたくさんいるのだ。あ、まだ読んでないので別に宇佐見さんの小説がどうこうとも言えないし、そういうことではなく、ですね。

 時代というか、その時の空気というかそれは当然あるわけで、特に今はコロナウイルスもあり、今という時代が強く意識される。1年前に始まったこの騒ぎのおかげで、13か月前は思いもしなかった時を過ごしているのだ。

やはり、旬にそって読書することも大切かな?とりあえず頑張ってみるけど、旬な本をここで取り上げたり、紹介したりはやっぱりちょっと・・・と、今回はこれが締めくくりの言葉となりました。すみません・・・。